【中津市】四度も中津を訪れ滞在した種田山頭火、その足跡を求め『中津市歴史博物館』へ

大分県中津市おでかけコラム/インタビュー
 2025/01/18
【中津市】四度も中津を訪れ滞在した種田山頭火、その足跡を求め『中津市歴史博物館』へ

先日{日本料理 筑紫亭」でクリスマスコンサートを鑑賞した時に、
大戸口横に種田山頭火の句碑があることに気づいた。

山頭火らしいユーモアのある句だ。
初めて食べる河豚をしげしげと眺め、目を細めて味わう姿が見えてくる。

種田山頭火の句を最初に読んだのは20代の頃だった。

なんとも不思議で印象深く、鮮烈なイメージを残した。
季語にとらわれず、俳句の規則「七五調」を使わない自由律俳句は、
まさしく自由に言語を操る魔術のように思えたし、逆の意味で前衛性も感じた。
山頭火の句集『草木塔』を買って読んでみた。同じ句集を2回買った(人にあげたのだが)。
最初は拾い読みした。通して読んだ。3回読んだ。
そのうち大好物になった。朝昼晩山頭火、一週間でもいけるようになった。

 

山頭火は中津に関係深いとは知っていたが、詳しくは知らなかった。
彼の足跡は『行乞記(ぎょうこつき)』などの日記に記されているが、
全巻紐解いて中津の部分だけを抽出するのは困難。

そこで「中津市歴史博物館」に尋ねることにした。

応対して頂いたのは学芸員でもある吉川和彦副館長。

事前に来訪の連絡をとっておいたら、資料を揃えて待っていてくれた。ありがとうございます。
見せて頂いた様々な資料から、予想以上の事実を知ることとなる。
山頭火は「一度行った土地へは二度と行きたくない。」(青年)と書き記しているが
大正15(1926)年から昭和13(1938)年までの間に、4回中津に来遊し、
いずれも銀行家の松垣味々(まいまい)老宅に滞在している。
上記の筑紫亭の句は昭和5(1930)年に詠まれた。
松垣老は山頭火同様、荻原井泉水(せいせんすい)の門下であり山頭火の句友、
物心両面から生涯山頭火を支えた人物。
中津には同じように句友に木村宇平、村上二丘(村上記念病院)などが居住し、
九州の中でも中津は自由律俳句の中心的位置にあったらしい。

句碑になっている有名な句がある。

これは昭和13(1938)年、木村宇平宅で詠まれた。
この最後の「の」の表現が山頭火らしく、その後に続く言葉を想像させて、なんと深い余韻がある。
東林寺境内にその句碑はある。

 

取材の後、博物館内の展示物も見せて頂いた。


耶馬渓から発掘された古代の人骨。

緒方洪庵が江戸時代末期に大阪で開いた「適塾」の名簿。
諭吉先生の名前があります。
伊藤若冲を彷彿させるユニークな象、笑ってしまった。
そしてまさかあるとは思わなかったフルヘッヘンドの記述で有名な『ターヘル・アナトミア』、
つまり『解体新書』の原本。前野良沢が中津藩医だったからあるのも不思議ではないかな。

施設にはグッズ販売コーナーとカフェも併設され、くつろげる空間となっています。
中津歴史博物館は入館のみなら無料、有料の資料室の観覧料はなんとこの時代に300円。
ぜひご利用ください!!

 

 

最後に再び山頭火。

文学や絵画、映画などのアート作品はその背景を探ることなく、純粋に鑑賞するべきだとは思う。
ただ誕生秘話や作者の生涯を知ることにより、鑑賞の深みが増すことも多い。
パブロ・ピカソの大作『ゲルニカ』も、その背景を知ると味わいが倍増する。
日本では「山下清」。ドラマや映画で「裸の大将」として、
日本各地を放浪したことは皆知っている。知らずに貼絵のみを観た場合、
よく描かれた作品とだけ思うかも知れないが、
知って鑑賞するとあのランニングシャツで創作している姿と重なり印象が全く違ってくる。
山頭火も同様に、出家した後、行乞姿の無一文で全国を放浪し、
友人たちに迷惑をかけ続けた生涯と重ねて読むと味わいが増してくる。

ちょっとだけ好きな句を掲載します。写真イメージと句の内容に関連はありません。

中津市歴史博物館

名称
中津市歴史博物館
電話番号
(0979)23-8615
住所
〒871-0057 大分県中津市1290番地(三ノ丁)
定休日
休館日:毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)/年末年始(12月29日~1月3日)
営業時間
開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)

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